論文：日本の戦前教育――国家主義と国民統合の装置としての教育
教育は、社会の価値観や理念を次世代に継承し、国家のあり方を形作る上で極めて重要な役割を担う，特に近代国家においては、国民の形成と国家の統合を目的とした「国民教育」の確立が、国家建設の根幹をなしてきた，日本の戦前教育、すなわち明治維新から第二次世界大戦敗戦に至るまでの約80年間の教育は、まさにその典型的な例として挙げられる，本稿では、戦前日本の教育が、どのようにして「国家主義」と「軍国主義」の思想を国民に浸透させ、国家の戦争遂行能力を支えるための装置として機能したのかを、その歴史的展開と具体的な内容を辿りながら考察する。
戦前教育の成立と展開
戦前教育の源流は、明治維新後の「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」という三大政策に求められる，政府は、西洋列強に伍する近代国家を建設するため、国民の素養を高め、国家に忠誠を尽くす「国民」の育成を急務とした。その第一歩が、1872年に公布された「学制」である。これは、日本で初めての近代的な全国的な学校制度であり、教育の機会均等を謳い、国民の読み書き能力を向上させることを目指した。しかし、西洋の制度をそのまま導入したため、国民の経済的負担が大きく、また西洋思想の流入を危惧する声も高まった。
このような状況を受け、政府は教育のあり方を見直し、1890年に「教育勅語」が発布された。これは、戦前日本の教育の根幹をなす最高規範となり、その影響は戦後まで及んだ，教育勅語は、天皇を中心とする国家の秩序（国体）の尊厳を説き、臣民としての道徳的規範（孝行、友愛、忠義、勤勉など）を示した。これにより、教育の目的は個人の知識の習得から、天皇への忠誠を絶対視する「忠君愛国」の精神を涵養する方向へと大きく転換した。
教育制度の特徴と国家主義の浸透
戦前の教育制度は、教育勅語を軸とした国家主義的な色彩が色濃く反映されていた。
（1）国家主義的な教育課程 学校教育では、国語、歴史、地理といった教科が国家主義の思想的基盤を形成する中心的な役割を担った，特に「国史」（日本史）教育は、「神国日本」という観点から、天皇の万世一系と国体の優越性を強調し、国民のアイデンティティを「日本人」として形成した。また、「修身」教育では、教育勅語の精神に基づき、個人の自由よりも国家や家族への奉仕が徳として教え込まれた。
（2）軍国主義教育の強化 日清・日露戦争を経て、日本の帝国主義的膨張は加速し、教育も軍国主義的な色彩を強めていく，特に1930年代に入ると、満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争へと突き進む中で、教育は戦争遂行のための「戦力」の育成を明確な目標とするようになった。
1937年には「国民精神総動員」が、1941年には「戦時教育令」が公布され、学校教育は戦時体制に完全に組み込まれた，授業時間は短縮され、その代わりに勤労動員や軍事教練が日常化した，教科書は検閲が強化され、軍国主義的な思想が記述される一方、反戦的な思想は厳しく排除された，学校は「戦陣訓」の暗唱を義務付け、生徒たちに「死を恐れず、天皇のために命を捧げる」ことを教え込んだ。このような教育は、若者たちを戦場へと送り込むための精神的支柱となった。
（3）皇民化教育と思想統制 日本が支配した地域（朝鮮、台湾、満州など）では、現地住民を「皇民」として同化させるための強制的な皇民化教育が推進された，日本語の使用を強制し、神社参拝を奨励し、自らの文化や言語を否定させることで、日本帝国への忠誠を植え付けようとした，国内においても、「治安維持法」などを背景に、政府に批判的な思想を持つ者は「思想犯」として弾圧され、教育現場も言論統制の下に置かれた，自由な思考や批判精神は、国家の利益に反するとして抑圧された。
戦前教育の評価と影響
戦前の教育は、国民の識字率の向上や義務教育の普及という側面も持つ一方で、その本質は国家主義・軍国主義を国民に強要し、個人の尊厳や自由を抑圧するものであった，教育勅語は、天皇を神聖視する思想を国民の心に深く刻み、盲目的な愛国心を育んだ。その結果、多くの国民は、政府や軍部の行動を疑うことなく戦争に協力し、甚大な犠牲を強いられることになった。
敗戦後、連合国軍総司令部（GHQ）の指導の下で、戦前の教育体制は根本から見直された，教育勅語は失効し、教育の機会均等と平和主義を掲げる「教育基本法」が制定された。しかし、戦前の教育が国民の心に残した影響は根強く、一部の保守的な勢力による教育勅語の再評価や、歴史認識をめぐる議論は、現在なお続いている。
戦前の日本の教育は、近代国家の形成という目的の下に始まりやがて国家主義と軍国主義の道を歩んだ。それは、国家のために個を犠牲にするという、国家至上主義の極致であった。その歴史を振り返ることは、教育が持つ巨大な力と、その力が時にいかに危険に歪められるかを示す重要な教訓である，教育が、戦争ではなく平和、個人の尊厳と自由、そして国際理解を育むための力となるよう、そのあり方を常に問い続けていく必要がある，戦前教育の経験は、私たちに、教育の本質が何であるかを深く考えさせるある。
参考文献（論文作成の参考にした書籍など）
- 奈倉哲三 『戦前戦後の教育思想』 岩波書店
- 日本教育学会編 『教育の歴史』 有斐閣
- 原田実 『戦時教育の研究』 青木書店
- 藤田昇 『教育勅語の社会史』 講談社学術文庫
